期待とプレッシャー。

今日は最初に、ひとつだけお話をさせていただきたいことがあります。

私はまだ、ブログを始めてほんの少ししか経っていません。ブログ初心者です。

ですが、そんな私の書く拙い文章を読んでくださっている方々がいることを知りました。直接伝えることは難しいのですが、感謝の気持ちを伝えたいです。

本当にありがとうございます。とても、嬉しいです。私の励みになっています。

 

今回は、私が小学生の頃、頑張っていたことについてお話させていただこうと思います。

私は性格的に、なんでも頑張りたい、欲張りな小学生でした。

負けず嫌いというべきなのか、でも常に周りと競っているかと聞かれれば、そういうわけでもなさそう。できないことが悔しくて、なんでも自分が納得できるまでは頑張りたい、自分の全力で取り組まないと気が済まない。自分でもいい加減疲れるな、と思うことは多々あります。

そんな性格のせいで、小学生の間も自分で自分の首を絞めていたわけなのですが、人間、性格はそう簡単には変わりません。

後に私は、この性格の影響で大きな壁にぶち当たります。

 

私が小学生の頃、特に力を入れて頑張っていたことはマラソンでした。

私の学校では1か月に1度、定期的に記録会があり、秋に最終的な大きな記録会がある、というようなシステムでした。

そのマラソン記録会に6年間力を注ぐきっかけとなる出来事が起こったのは、小学1年生の秋に行われた記録会でした。

私はこの記録会で1位をとります。保育園ではこんな長距離を走ることはなかったので、自分にこんな能力があったのか、と私も両親も驚きました。

ここで1位をとってしまったことで、私はもう後にひくことができなくなってしまいます。結果的に6年間、1位を死守し続けました。

休み時間はひたすら校庭をぐるぐる。毎日チャイムが鳴るまで走っていました。

私の学校では、先生から生徒全員に配られるマラソンカードというものがありまして、走った周数分、色を塗っていくのですが、私のマラソンカードはあっという間にレインボー。

あの頃の私は、自分でも少し狂っていたと思います。1位というプレッシャーを勝手に感じていたんです。

これだけ練習をしていると、1か月に1度ある記録会の度に自己記録が更新されていくわけですが、私自身も前回の自分に負けたくない、そして記録を更新していく私に担任の先生が期待していることも感じていたんです。

周りの友達も先生方も、私が1位をとって当たり前だと思っている。そのことを小学生の私はひしひしと感じていました。

正直いっぱいいっぱいだった。記録会がある日の前日からドキドキで、当日は必ず吐き気に襲われる。だけどあの頃の私には、頑張るしかなかった、やりきるしかなかったんです。

今思えば、校内だけで行われるマラソン記録会に何をそんなに頑張っていたんだと、おかしくなったりもします。

だけど、周りの生徒からの目、先生の中で形成されている自分の生徒像、そしていつも全力で応援してくれているお父さんお母さんを裏切るわけにはいかなかった。毎日お家に帰ってきてからもひとりで走っていたくらいですから、必死だったんだと思います。

あの頃の自分を思い出せば、おかしくなったりはするけれど、あの頃の私を否定するのは嫌だなと思います。6年間よく頑張ったね、と言ってあげたい。そして、どうしても辛かったら周りの期待になんて気づかないふりをしてもいいんだよ、と今なら言ってあげられる。

あの頃の私は逃げ道なんて知らなかったから。私が逃げ道を知ったのは、ある意味最近かもしれません。

 

今回はここまで。期待って人を大きく成長させたり、人に凄い力を発揮させたりすると思うんです。と同時に、時に人を追い込んでしまうものにもなると感じています。

私が難しいなと思うのは、その人に期待を寄せている人の多くは、その人のことを応援していたり、気にかけてくれている人だと思います。その想いはきっと温かいものです。だからこそ、人はその期待に応えたいと思う。その人の期待に応えたくて一生懸命頑張るんだと思うんです。

だけど中には、その期待がプレッシャーになって押しつぶされてしまう人もいる。

なんだか難しいなぁと思います。

期待とプレッシャー、自分の中でのそのラインを今も探りながら、今日も私は生きています。

大丈夫。未来は明るい。

今回は、前回のお話の続きを書かせていただこうと思います。

 

いじめに耐え続け5年生になったある日、私の中で我慢の限界を越える出来事が起こります。

それは放課後、教室で同じクラスの子がボスにいじめられているのを目の当たりにしたことでした。ボスを筆頭に、複数人でひとりの子をいじめていたんです。

今までボスからのいじめに黙って耐えてきた私の身に何が起こったのか、自分でもあまりよく覚えていません。ですが、いじめをしているボスに向かって「○○は相手の気持ちが想像できないのか。いい加減、逆の立場に立って考えてみようよ。」と言い放ったことは覚えています。ボスは驚いた顔をしていました。理由は分かっています。一つは、普段はクラスの中でも大人しく、今まで何をしても言い返してこなかった私がいきなり文句をつけてきたこと。もう一つは、今まで誰もボスに歯向かう人がいなかった中で、自分に歯向かう人間が現れたこと。

その後この出来事はどういうわけか、先生たちの耳まで届いてしまうことになります。

正直その頃の私は焦りました。先程もお話ししたように私はクラスの中では大人しく、先生に怒られたこともない、そんな生徒だったからです。担任の先生からも自分がどう見られているか、小学生なりに分かっていました。だからこそ、先生に自分の隠していた部分を見られたような気がして恥ずかしかったんだと思います。

先生の耳にその出来事が届いていたことを知ったのは、ある日の帰りの会でした。

先生が突然「このクラスに隣のクラスの○○にものを言える子がひとりだけいる。」という話をし始めたんです。あの日、教室内には私たち生徒が数人いただけでしたので、最初は特になにも感じず話を聞いていました。が、話を聞けば聞くほどあの日あった出来事を先生が知っていることは明らかでした。私の心臓はバクバクです。

ですが、私の性格を分かっていた先生は、私の名前だけは伏せておいてくれました。

そして最後に先生がこう言いました。「そういう生徒が一人でも多くなることを願っています」。この一言が私の心を軽くしました。先生にバレたことは確かに恥ずかしかったけど、自分のしたことは間違っていなかったんだと、少しだけ誇らしい気持ちになったことを覚えています。

その放課後での出来事があって以降、私に対してのボスからのいじめはぱたりとなくなりました。そして、私の周りからもボスのいじめはなくなりました。

もちろんボスが全ての子に対していじめをしなくなったとは思っていません。私の知らないところでは、いじめは続いていたと思います。

私を含め、私の周りからボスのいじめが止んでから、ボスは悪いことをする前に必ず私が見ていないかを確認するようになりました。私は横目でボスが私を確認していることには気づいていましたが、その悪いことがいじめや人を傷つける行為でなければ、私は気づかないふりをしていました。そこまで私が立ち入るべきではないと、小学生の私は判断したのだと思います。

私の判断が正しかったのか、それは分かりません。その行為がいじめではなかったとしても、悪いことをすることに気づいていたのなら注意をできる子でいなさい、と考える先生もいたかもしれません。私が引いた判断のラインは、それが人を傷つける行為であるか否か。そのラインを引いたのは、自分自身を守るためでもあったと思うからこそ、逃げだと思う方もいるかもしれません。

ですが、これがその時、小学校という社会の中でいじめと戦い続けた小学生の私が出した精一杯の答えでした。

 

今回はここまで。前回のブログに引き続き、二度にわたって私が経験した小学校での「いじめ」についてお話させていただきました。

私が小学生だったのはもう十年以上前のことです。ですから、今現在の小学校という社会がどのようになっているのか気になったりもします。なんとなく私のイメージですが、今の小学生は私たちの時代よりも賢そうに見える、あの頃の私たちよりいろいろなことを知っていそう、分かっていそうです。

だからこそ立ちはだかる壁もあるんだろうなぁ、と勝手な想像をしながら、だけど立ちはだかる壁の種類が違っても、小学校という社会の中で、小学生なりに一生懸命生きていることは確かだと思います。あの頃の私がそうだったように、心の中にいろいろな思いを抱えながらも、子どもなりに毎日必死に生きているんだと思います。

普段、外を歩いていて小学生を見かけると、私はいつも漠然と思うことがあります。

「この子たちの未来が明るいものでありますように」。

無責任に聞こえるかもしれません。だけど、この子たちにはこれからまだまだたくさんの選択肢があって、もっともっと広い世界がある、自分の意志で未来を切り開くことができる、だから大丈夫だよ、と。もしかしたらこれは、あの頃の私に伝えたい言葉でもあるのかもしれません。

23歳になった私にも、大丈夫、未来は明るいよ、と言い聞かせながら、今日も私は生きています。

強く、優しく、正しく。

今回は、私の小学生時代のお話を書かせていただこうと思います。

小学校での出来事を書こうとすると6年分あるので、一度のブログで全てを書くことはできないと思います。ですから、何度かに分けて少しづつお話しできればいいなと思っています。

2007年、春。私は小学校に入学しました。赤いランドセルと勉強机は祖父母からのプレゼント。一年生だけが被る黄色い帽子とぴかぴかのランドセルを身につけて、通学路に慣れるまでは毎朝お父さんが一緒に登校してくれました。毎朝私と登校をするとき、お父さんが決まっていつも着ていた服を今でも覚えています。

通学路にも慣れ、ひとりで登校することができるようになってからはお母さんが、私の姿が見えなくなるまで手を振って見送ってくれていました。時には玄関から、時には洗面所の窓から。いつも必ず姿が見えなくなるまでちゃんと手を振ってくれているのが嬉しかったです。だけどお母さんの姿が見えなくなる最後の瞬間が少しだけ寂しくて、時々後ろ向きのままちょっとだけ後戻りしてみたり。それでもお母さんはまだちゃんとそこにいてくれていて、そんな私に向かって笑いながら手を振り続けてくれていました。

入学して間もなく、私は小学校生活6年を通して戦うことになるある壁に衝突します。

それが「いじめ」でした。

私とは別の保育園から来た子の中に、ボスのような女の子がいたんです。ある意味賢い子たちは、そのボスの手下につくのが早かった。そうすれば自分がいじめられることは無いわけですから、いつもボスは複数の女の子を引き連れて行動していました。中には、男の子もいたと思います。そのくらい権力を持っていたということです。後に彼女は、校長先生までを机と一緒に蹴り飛ばします。

私はそのボスと4年間同じクラスでした。一年生の頃は、毎日泣きながら帰ってくるのがお決まり。お家ではお母さんが待ってくれています。

座っているお母さんの膝に顔を埋めて、よく泣いていました。そんなこんなで6年間、私はお家に帰ってくるなり、学校であった出来事を1から10までお母さんに報告することが日課になっていました。今日あった嬉しい報告から愚痴まで、私はお家に帰ってくるとほぼ毎日ずっと喋りっぱなしです。お母さんはそれを6年間、毎日ちゃんと聞いてくれていました。

私のお母さんの凄いところは、私の話を聞くだけで終わらないところです。

いじめられて泣いて帰ってくることが多かった私は、お母さんからしつこく言われていたことがありました。それは「いじめにあった時、いつ何時も自分に非があってはいけない。だから嫌なことをされても、悪口を言われても、絶対に相手に同じことをしてはいけないよ。正しさで戦いなさい。」と。

このお母さんの言っていた「正しさ」を文章にして説明するのは難しいのですが、人としてどうあるべきなのか、どんなに嫌な思いをさせられても、間違った方法で相手を攻撃することが無いように、泣いて帰ってくる度に、いじめとの戦い方を何度も何度も私に教えてくれました。

この時お母さんから得たたくさんの学びは、今も私の中で大きな存在として残っています。

 

今回はここまで。小学生になって私の前に立ちはだかった「いじめ」という壁。

その壁の乗り越え方は、お母さんから教えてもらいました。

いじめは辛かったけれど、心は強く、人には優しく、正しくあることで、私は私を好きでいることができました。

お母さんが教えてくれていたこと、それはいじめとの戦い方でもあり、同時に自分を守る方法でもあったんだと、今改めて思います。

いくつになっても自分のことを好きでいられるように、今日も私は生きています。

年長さんなりの意地。

今回は、私が保育園の年長さんだった頃を振り返ってみようと思います。

私の保育園では、年長さんになると全員、よさこいを覚えていろいろな場所で披露をするというしきたりがありました。いつもは優しい先生たちが鬼のようになって指導をします。なんなら園長先生まで出てきちゃったりします。そのくらい私の保育園では年長組さんのよさこいが伝統として受け継がれていました。担任の先生方にとっても1年を通しての大仕事だったと思います。

このよさこいで、私の知らなかった、きっとお父さんお母さんも知らなかったはず、の私のちょっとした才能が開花することになります。それが「踊り」です。なんとよさこいのセンターを任されてしまうという、今思い出しても何がどうなってそうなったのか分かりません。覚えていません。気がついたら真ん中に立たされていました。

幼い頃の私は恥ずかしがり屋で、人前で何かをするのが大の苦手でした。

これはよさこいより後の話になりますが、お遊戯会でヒロインの役を任されたとき、その練習が嫌で、保育園を数日間ズル休みしたくらいです。

ですが、先生に向かって「やりたくない」と言いにいく度胸はもちろんありません。

1年間ちゃんとセンターをやり続けました。残されていたビデオテープを見返すと、確かに保育園児にしては程よく、周りの子たちより少しだけ上手に踊れていたんだと思います。あとは自分でいうのも何なんですが、覚えと聞きわけは良かった、はず。これは先生に怒られるのが嫌だっただけなのですが、何十人もの子供たちに踊りを覚えさせなければならなかった先生の立場を考えれば、私がちょうどよかったのは少しわかる。その1年の間に、よさこい以外に鬼剣舞という踊りのセンター+ソロパートまで踊りました。これに関しては正直、保育園児ながら「それは聞いてない」と思いました。鬼剣舞って刀を持って踊るんです。余計に「どうして私なの」と思いました。せめてもっと可愛い踊りだったら嬉しかった。そんなこんなで流されたまま、年長さんの1年はお家でも踊りの練習をしていたことを覚えています。

だけど今思えば、この経験で私が得たものはたくさんあったと思います。ひとつのことを最後までやり抜いた時の達成感、努力するということ。最初はものすごく嫌なことだったけど、保育園児なりに先生方の期待にも応えたかった。だから、一生懸命でした。

そうやって少しずつ心も成長させてもらったのだと思います。

そしてそして、私はこの年長さんの間に初めてのバレンタインというものを経験します。前回のブログでも紹介した仲良し三人組の中の男の子。私の初恋の人です。

どうやって渡したのかは覚えていないけれど、チョコレートを渡したと思います。そして、ホワイトデーにはお返しをもらいました。お返しを渡しにお母さんと私のお家まで来た彼が、お母さんの後ろに隠れてぴょんぴょん覗いていたのを覚えています。つまり正しくは、彼からというよりは彼のお母さんからホワイトデーをいただきました。

 

今日はここまで。今の私が「どんなことでも最後まで全力でやり抜く」ことができるのは、保育園のここから始まったと思っています。

誰にでもできることでも、目新しいものでなくても、やり抜いたからこそ見える景色だったり得られるものって本当にあるんだなぁと、まだ人生23年しか生きていませんが、そういう経験を他の人よりも少しだけ多く経験してきたように感じています。

その分、辛いことや葛藤もたくさんあったけれど、いつもそれを支えてくれていたのは家族でした。今でもそんな心強い家族に心は支えられ、今日も私は生きています。

保育園という世界の中で。

前回のブログでは、私が生まれてから保育器から出られるようになるまでのお話を書かせていただきました。

とは言っても、生まれてから物心がつくまでのことは私の記憶の中にはありません。

お父さんお母さんから聞いたお話や残されていたビデオテープ、写真を見て知ったこと、それを私が文字という形に変えただけです。

ですから、そのとき私自身が感じていたことや思っていたことなど、私視点のお話はどうやってもできないわけで、すごくさらっとした内容になっていたと思います。

 

今回のブログは、私が保育園に入園してからのお話です。私の記憶の中にあるお話です。ということは、これまでより私視点の内容が多くなるということで、私もいろいろと書けることが増えるなぁと少しワクワクしています。

私は3歳で保育園に入りました。さすがに入園式などの記憶はありません。

ですが3歳で入園し、私のクラスの担任をしてくださっていた先生のことは覚えています。私はその先生のことが大好きでした。あとは、私はものすごくお母さんにべったりの子どもだったので、初めの頃、いや、保育園に慣れるまでしばらくの間は、登園する度にギャン泣き。ぼやっとした記憶ですが、毎回クラスの先生がお母さんから一生懸命私を剝がしていたことは覚えています。先生もお母さんも「はいはーい(笑)」と笑っているのですが、当の本人はこの世の終わりくらいの絶望を感じていたみたいで。そのくらい駄々をこねていたことは覚えています。それでも毎日私のことを笑顔で迎えてくれていた先生方には本当に感謝です。特に私が好きだった担任の先生がお休みの日は、いつもに増してお母さんから離れるもんかと泣きじゃくっていたので、それもまた、今思えば失礼な子供だったなぁと申し訳なく思います。

年中さんになると、いつも決まって一緒に遊ぶお友達ができました。ひとりは女の子、もうひとりは男の子。三人でよくおままごとや鬼ごっこをしていたことを覚えています。

そう、おままごとと言えば、話は逸れるのですが、私、ものすごくごっこ遊びが好きだったんです。お家ごっこに学校ごっこ、お店屋さんごっこ。逃走中ごっことか。それで迷惑していたのが、私の妹たちです。なんていったって、毎回私のごっこ遊びに付き合わされるんですから、たまったもんじゃなかったと思います。学校ごっこだって、いつも私が先生役なのですが、その先生が優しい先生ならまだよかったと思います。だけど私の先生は絶妙に厳しかった。厳しかったというか、ごっこ遊びへの熱量が半端じゃなかったので、再現がいちいち忠実だったんです。自分で名簿や連絡帳を作ったり、今日の目標、校歌までありました。これを今自分で書きながら引いています。最初は楽しかった妹たちも、だんだんと私のごっこ遊びの誘いにのってきてくれる回数が減っていったことを覚えています。ごっこ遊びの設定が学校だったときは特に。反省しています。

後半のほうは架空の生徒といいますか、誰もいない空間に向かってひとりで授業をしていました。傍から見たら恐怖です。あの子には何か見えているのではないかと。でも安心してください。私にも生徒は誰も見えていません。

それに対して、逃走中ごっこなんかは、兄弟が三人しかいないので見えない架空のハンターから逃げるのですが、私が作った段ボールの携帯を持ちながらただただお家の中を走り回っている妹たちの顔は笑顔でした。

話がだいぶ脱線したのですが、保育園で仲の良かった三人組でごっこあそびをするときは、いつもお家ごっこだったと思います。まだ学校という世界を知らなかった、穏やかなごっこ遊びでした。

この三人組の中にいた男の子、この子が私の初めて好きになった男の子でした。おとなしいけど優しい子。一緒に遊んでいて楽しかった。最初はそんな感覚だったと思います。

私は給食とお昼寝の時間が嫌いでした。なんて面倒くさい子供なんだという感じですよね。今でもそうなのですが、私はサラダの中に果物が入っているのが苦手で、それがどうしても食べられなくてよくクラスの隅っこでもう遊び始めている友達たちを眺めながら居残りしていました。しかも、保育園の給食はこの果物入りのサラダが出てくる頻度が多い。それが私が給食の時間が苦手な原因でした。

お昼寝の時間が嫌だった理由は、ただ嫌だった。だと思います。お昼寝が嫌いな子供って多い気がするのですが、あれはやっぱり遊びたい気持ちが勝ってしまうからなのでしょうか。小学生になると、あのお昼寝の時間がいかにありがたいものだったのか痛感しました。

 

今日はここまで。保育園に入園してから、年中さんくらいまでのお話を書かせていただきました。

優しい先生と賑やかで温かい、保育園というあの場所が恋しくなったりもするけれど、今日も私は生きています。

私は2000年に生まれました。

前回初めての「ブログ」を書かせていただきました。

今日からは私が生まれてからのお話を、ここに書き残していこうと思います。

 

私は2000年の秋、この世に生まれました。

こんな書き方をするとなんだか大げさに聞こえるけれど、気がついたらこの世に生まれていました。

お母さんに本当に感謝です。

生まれる予定日より1か月早く、私は未熟児で生まれました。

生まれてすぐに保育器に入り、お父さんお母さんと触れ合うことができる時間は限られていたようです。そのときのことは、大きくなってから残されていたビデオテープを見て知りました。

保育器の中にいる自分は、本当に小さくて、まるでおサルさん。可愛いか、と聞かれれば、小さすぎてなんだこの生き物は、という感じです。

だけど、そんな私のことを小窓から覗いているお父さんとお母さんの顔は、愛でいっぱいだったように感じます。私の記憶には無い、若いお父さんとお母さんの顔。

その顔を見ただけで、私はこんなに愛されて生まれてきたんだなぁと感じることができました。私の知っているいつものお父さんお母さんの顔とは、また少し違う、幸せそうな顔。見ている私まで心が温かくなるような映像でした。

私は1歳になるまでに6回入院をしました。

体があまり強くなく、その中にはお医者さんに「ご家族を呼んでください」と言われたこともあったそうで。お父さんとお母さんはどんな気持ちだったのだろうと、私には分かるとは決して言えないけれど、想像しただけで本当に辛い思いをさせたんだろうなぁと、申し訳ない気持ちになります。

だけど、お医者さんやお父さんお母さん、たくさんの人たちの力を借りて、保育器から出られるまで大きく育ててもらいました。

 

今日はここまで。お母さんのお腹の中にやってきてから私が生まれるまで、そして保育器から出ることができるほど大きく育つまで。全てが奇跡で、だけどそれはお母さんをはじめ、多くの人たちの支えがあったからこそ起きた奇跡で。やっぱり人間はひとりでは生きていけないんだなぁと、感謝の気持ちでいっぱいになりました。

 

たくさんの人たちに生かされた命をもって、今日も私は生きています。

初めての「ブログ」

はじめまして。今日からブログを書くことにしました。

今、人生で初めて「ブログ」というものを書いています。ちょっと緊張。

私のブログの基本的な内容は、私という人間の人生について。完全に自己満足になってしまうけれど。

私のこれまでをちょっぴり適当に、ちょっぴり真面目に、だけどありのままの自分をここに残していこうと思います。

 

まずは、簡単な自己紹介、であっているでしょうか。(笑)

ブログの書き方が分からないので、自分の書きたいことを書いていこうと思います。

すみません。

 

自己紹介とはいっても、何を書いたらいいのか。

私は2000年に生まれました。今年で23歳になります。

家族はお父さん、お母さんと妹がふたり、愛犬が一匹。

今は同い年の彼氏と、ふたりでの生活を送っています。

 

という、誰も興味のないことを書いている今。自分のことを客観視してしまうとブログを書くこと自体を断念してしまいそうになります。なんだか恥ずかしくて。なにをしているんだろうって。

だけどちょっぴり、いや、だいぶ勇気を出して、今まで自分がしたことのないことにチャレンジしてみました。

 

今日はここまで。私のことについてはこれからたくさん書いていくことになるはずなので、すごくすごく省略された自己紹介になってしまいました。ごめんなさい。

大してなにも書いていないのに、緊張しました。

 

なんでも初めてのことって勇気がいるし、緊張するんだなぁと改めて思いました。

だけど新しいことを始めたことが、なにか謎の一歩を踏み出せた気がして少し嬉しいです。

 

こんなに中身のない内容のブログを最後まで読んでくださった方がいたら、本当にありがとうございます。

 

私という人間がこの世に生まれ、生きたこと、生きていること。

不思議なことばかりだけど、今日も私は生きています。